【歴史】壬申の乱と奈良の時代

天智天皇(中大兄皇子が天皇になった時の名前)が治めた時代では、地方の統治制度も少しずつ作られ、国家体制が盤石となっていくと同時に、次の天皇となる人を決める為に争いが起こりました。

そして、少しずつ国家制度を確立していくと同時に、平城京の新しい時代に入っていきます。

 

今回は壬申の乱と奈良の時代について説明していきたいと思います。

(定期テストが近い人は赤字の所だけ理解するでもよいですが、歴史で起こる出来事には基本何らかの背景や原因があるので、これらを少し深堀しながら、なるべく単語ではなく、その内容で、そして他の出来事との繋がりで覚えるようにしましょう!)

壬申の乱

蘇我入鹿を打ち取り、大化の改新を進めた中大兄皇子が天智天皇となると、その絶大な権力は絶頂期となりました。その天智天皇は即位後4年で崩御(天皇が亡くなること)してしまいますが、ここで問題となったのが、次の天皇は誰?ということです。

その当時、天皇の息子(皇太子)が次の天皇となるとは決まっていなかったので、天皇の弟である大海人皇子が天皇となる可能性が大いにありました。

ところが、天智天皇は息子である大友皇子に天皇になってほしいと思うようになり、新たな役職をつくり、任命するなどしました。これを良く思わなかった大海人皇子は大友皇子を敵視するようになります。

そして、天智天皇が亡くなり、672年、両者陣営が天皇の座を巡って争う壬申の乱が起こりました。

大海人皇子は周りの豪族を従えて軍勢を作り、朝廷側を打ち倒し、大友皇子が自殺することで乱は収まりました。

大宝律令(律令国家の成立)

大海人皇子が壬申の乱で勝利すると、皇位を継承して天武天皇となり、皇族が中心の政治体制をより強めていくこととなります。

これと同時に、律令という今でいう法律を制定することを進め始めていました。

ここでとは刑法のことで、とは民法や行政法のようなものであり、唐の律令の制度を参考としていました。簡単に言うと、現在でいう法律のようなものですね。

701年、ついに大宝律令が発布されました。

この大宝律令には、大化の改新の中で発表された改新の詔の内容である

  • 班田収授法
  • 租庸調
  • 国郡里

などが正式に定められ、完成形として施行されました。

その他にも、行政の官庁も定められ、現在の行政府の原型となるものが完成されるなど、国家としての基盤を盤石にしていきました。

 

さて、律令によって治められている国を律令国家といい、このとき日本も律令国家への仲間入りを果たしたことになります。

奈良時代の幕開け

710年、現在の明日香村付近にあったとされる京から現在の奈良市付近へ遷都しました。その場所を平城京とよび、奈良の場所にあったことから奈良時代といいます。

平城京は碁盤の目のように張り巡らされた道路で出来ており、これは当時の世界で最大の都市であり、唐の首都である長安を真似たものであるとされています。

ここで、「飛鳥にちゃんと京があったのに、どうして場所を変えたんだろう?」って思う人もいると思います。

一説によると、長安を見物した遣唐使の見聞より、飛鳥の京ではとても敵わないから、新たに長安を真似た京を作ろうという事になったということがあるそうです。

 

遷都の2年前には和同開珎という貨幣も作られ、それが京で働く人々の賃金として用いられたりしました。

これは当時の税である租庸調のうち調の支払いに使うことができたほか、旅人や納税の為に遠征をする人々が、道中で米を買うことなどに用いられました。

(ちなみに、最も古い銭は富本銭という6世紀後半に作られたものだとされています)

墾田永年私財法

改新の詔で宣言した「班田収授法」以降、人々に口分田を与える代わりに租庸調の税を収めさせるというシステムを完成させていましたが、奈良時代に入ってくると、少々厄介な問題に直面します。

人口が増加して、分ける為の口分田が減ってきてしまったのです。食料も減っていきました。

これを解決する方法として723年に発布されたのが、三世一身の法です。

この内容とは、開墾(農耕ができる土地を新たに作ること)をしたら、本人、子供、孫の代までその土地貸してあげる!ただそれが途絶えたら返してね!あと、税は払ってね!」というものでした。

これによって、農民に開墾をさせて、期限がきたら公地(朝廷の土地)となり、それを分け与える為の口分田とできるという、朝廷にとっても農民にとってもwin-winな政策であるかのように思われました。

 

ところが、これはうまくいきませんでした。最初は確かに開墾が進んだそうですが、返すころには手を付けなくなり、荒廃した土地が朝廷に返されることとなりました。これではそれをそのまま口分田に使うのは難しく、食料生産を増やすという根本的な問題の解決にもなりませんでした。

 

そこで、743年に定められたのが、墾田永年私財法です。

これは、「開墾した土地は君のものにしていいよ!返さなくていいよ!ただ税は払ってね!」というものです。返す必要が無くなれば、せっかく開墾した土地を荒廃させられることも無くなり、食料も増えるだろうと考えたんですね。

 

これは確かに功を奏しましたが、新たな問題が生じていきます。

公地公民制は「国から土地を与える代わりに税を払う」というものでしたが、土地を与えるという前提が崩れるので、あれ?律令体制大丈夫?と思いますが、当時は何より開墾された土地を増やし、そこから税金を得ることが何より大事だったのだろう、という事がうかがえます。

 

実際に、この「私有できる権利」を行使して、力のある貴族や寺院が、人々を動員して開墾をすすめ、私有地を拡大していくこととなりました。(これが後に荘園とよばれるものとなっていきます。)

天災と天平文化

当時の遣唐使や新羅への使節である遣新羅使から持ってきたとされる天然痘により、735年から738年にかけて、100万人~150万人が亡くなったとされています。(当時の人口の30%程度)

現代のわれわれはウイルスや菌を知っているうえで恐れているのに、その当時はウイルスも菌も知るどころか、それが病気なのかどうかも分からないとなっては相当の不安があり、そしてかかった多くの人が亡くなるこの事態は尋常ではない恐怖があったと考えられます。

その当時の天皇である聖武天皇は、これらの事態を収める為に仏教の力に頼ることとし、東大寺の大仏をはじめ、全国の国に国分寺を設立しました。

 

疫病の他にも、干ばつや大地震、洪水などにも襲われ、天災に見舞われ続けましたが、これが奈良時代の代表的な文化である天平文化の発展に寄与しているとされています。

 

天平文化とは、その最盛期が聖武天皇の即位していた天平年間であったことから、そのように言われているもので、貴族層が享受した文化となります。

農民などの一般人がこれらの文化に触れることはほぼできませんでした。生活に困ることのない最上位付近の身分の人が娯楽を求めた結果、文化が発展していったのです。

寺院

この時代は、治世者がとにか仏教信仰によって国を治めるという考えであったため、数多くの寺院が建設されることとなりました。その代表例として東大寺や法華寺などがあり、全国に国分寺を設けることで地方の人々でもその恩恵を享受できるようにしました。

 

また、東大寺には大仏がつくられたり、彫像が作られて多くの寺院に置かれるなどしました。これらは唐の影響を強く受けています。

正倉院

奈良の東大寺の正倉院には、奈良時代に作られた美術品や、道具、家具などが多く収容されており、中にはギリシャやインドから運ばれてきたものもある。これは、ユーラシア大陸を貫くシルクロードをたどって日本までやってきたものであると考えられています。この頃から既に遠くの国々とのつながりがあったことが分かりますね。

万葉集

奈良時代後期から編纂が始まった詩集です。歌人は天皇から農民まで様々な身分がいて、その中には九州北部(太宰府)の防人の詩や東国の農民が詠んだ東歌などもあります。

これは日本で初めて作成された大規模な詩集であるとされ、後に登場する和歌集や文学作品等に大きな影響を与えています。

歴史書

この時代になってはじめて歴史書が編纂されることとなりました。まず古事記が712年に作成されます。これは神話レベルの時代から聖徳太子最盛の推古天皇の時代までの歴史が綴られました。

その後720年には古事記をもとに日本書紀が作成され、これは神話から持統天皇の時代までの歴史を記しました。

この時代以降、歴史書が次々と作られていくこととなりますが、私たちが学んでいる歴史というのもこの歴史書の内容に基づいています。この時代の人々が歴史を書物という形で残してくれているお陰で、今の歴史の勉強があると思うと、感慨深いものを感じませんか?

このような多くの新しい文化が花開いた奈良時代は栄華を極めることとなりましたが、この時代はそう長く続きませんでした。

その話は別の記事で話していきます!

最後までお読みいただきありがとうございました。

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