【歴史】平氏の滅亡と鎌倉時代のはじまり

院政の全盛期から、保元・平治の乱を経て、平清盛が政治の実権を握ることとなります。

そして、源氏と平氏は再び対面し、源氏が勝利、鎌倉の政権時代に入っていきます。

歴史の授業では飛ばしてしまう部分でイマイチわからない時代ではありますが、しっかり歴史の流れを追っていけば、スムーズに理解して覚えられると思います。

赤字のところは特に大事な部分となりますので、テスト勉強などで早く勉強したい人はその周辺を読んで覚えてみてください!

平氏の政権

平清盛が平治の乱で源氏との戦いに勝つと、平清盛を起用していた後白河上皇は平清盛を太政大臣に任命しました。太政大臣は天皇と同じくらいの権力を持ち、なるに相応しい人が来たときのみ任命されるポジションだったので、いかに強い権限を得たのかが分かると思います。

 

平清盛は早速現在の神戸付近にあった大輪田泊という港を改修し、国際港として利用できるようにしました。

ここでの貿易相手はで、唐が滅んでから数十年後に中国を再び統一してできた国です。

この当時宋とは国交を開いていませんでしたが、民間として貿易を行い、膨大な財産を手に入れることとなりました。

また、摂関政治と同様に娘を皇后とし、その息子を天皇とするという方法で、平氏の体制を盤石にしていきました。

 

このころの平清盛は、「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉を残したとされています。「平氏でないものは人ではない」という意味になりますが、いかに絶好調であったかうかがい知ることが出来ますね。(藤原道長の「この世をば…」という詩に似たものを感じますね。)

 

このような好き勝手な政治を周囲の皇族、貴族、武士たちはよく思いませんでした。

そして、1180年に当時の皇族の命令によって各国の武士が兵を挙げ、源頼朝らも挙兵しました。

源平の戦い

各国の兵を従えた源頼朝は鎌倉を拠点とし、指示を出し、京都を目指させました。ここで中心となったのは源義仲と源義経です。平氏を次々と追いやっていく中、ついに源義仲は京都から平氏を追い出し、自身が入ることなりました。ところが、皇族から嫌われてしまい、味方であるはずの源義経によって倒されることとなります。

その後は源義経が次々と撃破していき、壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で遂に平氏を滅ぼすことになります。壇ノ浦は現在の山口と福岡の間にあります。

 

こうして、源氏はとうとう歴史の表舞台へと上がるようになります。

 

さて、よく間違えられがちなのは、平氏を壇ノ浦で倒したのは源頼朝ではないということです。

この後、源義経は源頼朝に追われ、倒されることとなります。

 

源平の戦いでは味方だったのに、終わった瞬間に敵となって倒されてしまうのが何とも言い難いところではありますが、実際に平氏を倒したのが弟の源義経だったので、自分がトップになるためには弟を斬るしかなかったということですね。

また、源義経をかくまっていた奥州藤原家(東北地方にあった豪族)も滅ぼすことにより、東国の実権も握ることとなります。

こうして、源頼朝は政治の実権を握ることとなります。

鎌倉幕府の成立

源頼朝は1192年(イイクニ)に朝廷より征夷大将軍に任命され、拠点を置いていた鎌倉の地に幕府を置きました。幕府とは、最も権力を持った武家による政治の拠点で、首都とは別のものです(幕府は鎌倉になっても首都は天皇のいる京のままでした)。

 

「あれ、征夷大将軍って、平安時代に蝦夷(東北北部)を征伐するリーダーに与えられた役職だったような…」と思い出すことが出来た方は凄いです!

実際に蝦夷討伐に行くわけではなく、「蝦夷を討伐する為の軍を率いることが出来る」という名分をもって軍を好きに動員できる権利を得ることで、自身の影響力を持つこととしたのです。

また、守護・地頭という役職を全国に置くことで、全国を統制して実質上の政権を得ることに成功しました。

 

さて、この鎌倉に幕府を置き、そこから鎌倉幕府が崩壊するまでの約140年を鎌倉時代といいます。

 

この鎌倉幕府がどのような体制づくりを行ったのか、そしてどのように次の時代へ移り変わっていくかは、次の記事で紹介したいと思います!

最後までお読みいただきありがとうございました。

他にも様々なお役立ち情報をご紹介しているので、ぜひご参考にしてください。

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