【歴史】藤原氏の摂関政治と院政、平氏の台頭

長く平和な時代が続いた平安時代ですが、末期になるにつれ「武士」の台頭が始まります。
ここでは天皇の代わりに実権を握った藤原氏の台頭と、上皇・院政を経て力をつけてきた平氏の台頭を流れに沿って解説していきます。

鎌倉時代への足音を聞きながら読んでみてください!

藤原氏の台頭

平安時代中頃になると、藤原氏が台頭するようになりました。

「急に出てきたけど、藤原氏って誰?」と思うかと思いますが、元をたどると中臣鎌足に始まります。中臣鎌足は晩年に天智天皇より「藤原」の氏を貰っており、藤原鎌足として亡くなりました。

そんな彼の子孫が脈々とこの時代まで繋がり続け、平安時代中期になって再び政治の中心に躍り出ることとなったのです。

 

さて、藤原氏は摂関政治というものを行うことで実権を得ることとなりましたが、この摂関政治ってなんで実現できたのか、そもそも何なのか授業だとよく分からないという人が多いと思うので、そのメカニズムを解説していきたいと思います。

 

最初に、自分の娘を天皇に嫁がせます。

娘を嫁がせることによって、自分と天皇は外戚関係となります。この場合天皇の妻の親戚という事です。

 

次に、天皇と娘の間に皇子に生まれます。

この皇子というのは自分からすると孫にあたります。この時代は妻側の実家で子供を育てるというのが一般的だったので、皇子は妻の実家、つまり、自分と同じ家で住むことになります。同じ実家で育ち育てられた皇子と自分の間には血のつながりは勿論、情が生まれるでしょうから、一種の主従関係のようなものが発生します。

 

最後に、皇子が皇太子となり、天皇となると、自分を政治を代行する役職である「摂政」に任命します。これによって、自分は政治を思うがままに行うことが出来る、ということです。

 

このようにして藤原氏は天皇家と繋がりを強固にし、政治を主導する立場となっていきました。

 

ところで、摂関政治のとは「関白」のことで、天皇が成人した後に政治を助ける役職のことです。成人した後も役職を持ち、その天皇が在位する間は政治に対する影響力をもち続けることができました。

藤原道長・頼通の栄華と凋落

藤原氏の実権は藤原道長の時代に最盛期を迎えました。

「この世をば 我が世と思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

という詩を藤原道長は残しています。

これは「この世は私の為にあると思う。満月のように欠けていることが何もない(満ち足りている)」

といったものであり、いかに思い通りに物事を動かしていたのかがうかがえますね。

 

その息子である藤原頼通の時代も同じく順調に政治の実権を握っていました。

彼の作った代表的な建築物といえば平等院鳳凰堂です。

平等院鳳凰堂は現在の10円玉の柄にもなっている日本の代表的建造物ですね。

 

頼通も道長と同様に摂関政治を行おうと画策していましたが、そううまくは行きませんでした。

頼通が嫁がせた娘と天皇の間に皇子が生まれなかったのです。

 

摂関政治は皇子が生まれて、その皇子が天皇になって初めて権力を発揮できます。しかし、生まれなかったことから、今までの藤原氏の流れは途絶えてしまうこととなりました。

院政と平氏の台頭

摂関政治の体制が崩れると、藤原氏の権力は瞬く間に表舞台から退くこととなります。

そこで登場したのが白河天皇です。白河天皇は14年間天皇を務めると、生前に天皇の座を退き、堀河天皇に譲ります。そして自らは上皇(天皇を譲った人を示す尊称)となります。その後、白河上皇はと呼ばれる上皇の住処で政治を行うようになります。天皇が上皇になった後、院で政治を行うことから、院政と呼び、これは約100年続くことになります。

分かりにくい人には、会社の社長が天皇、会長が上皇、のようなものだと捉えてみると良いでしょう。

 

白河上皇が行った歴史上重要な事柄として、院に武士を置いたことにあります。院の警備の役割に武士を置いて就かせたのです。これは院のもつ軍として機能していましたが、結果として貴族の衰退と武士の発展する時代の幕開けを暗示していました。

 

そして、平安時代後期から末期にかけて、各地で武士団が作られていきました(つくられた経緯は様々な説があります)。

その中で、特に力をつけていったのが、源氏、そして平氏です。

この武士たちが脚光を浴びることとなるのが、保元の乱・平治の乱です。

保元の乱

院政は上皇が政治をするものですよ~と軽く流すと気付きませんが、ちゃんと問題点があります。それは天皇と上皇が対立するということです。仮に上皇が父で天皇が息子であれば、そこに血縁的な主従関係がありますが、上皇が兄、天皇が弟となれば話は変わってきます。

保元の乱のおこる直前、政治の構図は兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇となっており、実権を握り続ける天皇弟とそれに不満を持った上皇兄との間で保元の乱が起きることとなりました。これは1156年のことです。

 

さて、この争いに動員されたのが、有力な武士勢力であった源氏と平氏でした。このときは源氏と平氏は両勢力に入り混じっており、勢力争いとはなりませんでしたが、この乱の結果後白河天皇側が勝利し、その側についていた平清盛や源義朝が勢力を増していくこととなります。

平治の乱

争いはこれで終わることはありませんでした。

保元の乱で勝利した後、平清盛は後白河天皇の元で厚遇されることとなりますが、本来天皇として指名されていた二条天皇に天皇を譲り、上皇となりますが、この両者でも対立することとなります。

 

そこで、後白河上皇側についていた平清盛に対して、平氏の台頭を良く思わない源義朝が二条天皇側につき、争うこととなりました。これを平治の乱といいます。これは保元の乱の3年後である1159年のことです。

この結果、後白河上皇側である平清盛が勝利し、源義朝は殺害されました。さらに、義朝の息子である源頼朝が伊豆へ追いやられ、平氏の勢力は決定的なものとなりました。

 

この2つの乱により、政治の主導権争いが皇族・貴族の間で決められるのではなく、武士によって決まるという構図ができました。血筋なんてものはどうでもよく、「強い軍事力をもつ人が強い」ということです。貴族ナンバーワンの世界から武士ナンバーワンの世界に変わった明確な転換点となりました。

 

結果、勝利したのは後白河上皇で、勝利をもたらした平清盛を太政大臣に任命し、政治の中枢に置きますが、これを機に平氏は政治の実権を握ることとなります。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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