







こちらのページでは冷戦の終結と現代社会について解説していきます。
イラストや写真を用いてわかりやすく解説していくので授業の予習復習や定期テスト対策にご活用ください!
その他のやる気アシストの勉強記事 (歴史編) もこちらから見ることができます。ぜひご覧ください!
ここでは冷戦により世界情勢がどのように変化したのかを見ていきます。まずはベトナムについてです。
ベトナムは第二次世界大戦前まではフランスの植民地の一部でした。戦争を終え、日本の降伏後、ベトナム民主共和国が生まれます。ベトナム民主共和国は社会主義の国であり、この時からベトナム戦争までのリーダー的存在がホー・チ・ミンという人物になります。
ベトナム民主共和国は、自国の独立をかけて植民地化されていたフランスと戦争をします。これをインドシナ戦争といいます。ベトナム民主共和国は、同じ社会主義国であった中国とソ連に支援を受け、戦争に勝利します。
しかし、1954年のジュネーブ協定によりベトナムは北緯17度線を境に南北に分断されます。北には社会主義のベトナム民主共和国、南にはアメリカなど資本主義国の支援を受けたベトナム共和国が成立しました。こうしてベトナムは南北に二分割されます。そして南北の対立は長きにわたり続きました。

1960年、南北の対立の中で南ベトナムで新しい動きが起こります。南ベトナムで解放民族戦線が作られ、反政府運動を起こします。解放戦線側には北ベトナム、中国、ソ連が支援し、南ベトナム政府ではアメリカや資本主義国が支援し、国内の戦争となります。戦争はやがて大きくなり、1965年にはアメリカが北ベトナムへの空爆を開始します。これを北爆といいます。また、米軍は枯葉剤やクラスター爆弾などの使用により、国民への被害を与え批判されました。
世界で反戦運動が広がり戦争は泥沼化し、1973年にベトナム和平協定(パリ和平協定)が結ばれアメリカ軍が撤退しました。その後も戦闘は続き、1975年に南ベトナムの首都サイゴンが陥落して戦争は終結しました。その後、1976年7月 南北ベトナムが統一されベトナム社会主義共和国が生まれました。
ここからは、資本主義 社会主義それぞれの陣営の中でどのような変化が起こっていたのかを見ていきたいと思います。ベトナム戦争と同じぐらいの時期に起こった出来事です。
東側諸国 (社会主義陣営) の変化
ソ連は中華人民共和国が成立した後、社会主義国家建設をお金や軍事、技術の面で支援していました。しかし、ソ連のリーダーであったヨシフ・スターリンが1953年に死去してから、状況が変化します。1956年、ニキータ・フルシチョフという人物がスターリンの批判を行います。また、フルシチョフはアメリカと平和共存し冷戦の緊張を緩和する方向を目指しました。そうした変化に中国は反対します。ここから中ソ対立が深まっていくことになります。
中国はソ連との対立が深まる中、1958年にリーダーの毛沢東が大躍進政策を出します。しかし政策は失敗し、経済や社会に混乱を招きます。これにより毛沢東の政治的影響力は弱まり、国家運営の実権は他の指導者に移ります。その後、鄧小平などの経済改革を重視する人たちが次第に力を持つようになります。ところが、1966年から再び毛沢東は権力を取り戻すために資本主義的な文化や考え方を批判し、それらを持つとされた人々を迫害する文化大革命を進めていきました。
1976年、毛沢東が死去し、その後鄧小平が次第に実権を握るようになります。その結果、中華人民共和国では政治の体制は社会主義を維持しながら、経済では市場経済の要素を取り入れていく形になっていきました。日本と中国は、1972年に日中共同声明、1978年に日中平和友好条約により関係を改善し、国交正常化と友好関係の強化に向かっていきました。
西側諸国 (資本主義陣営) の変化
西側諸国は経済的に発展していきます。1967年、西ヨーロッパの国々を中心に、それまで存在していたヨーロッパの共同体が統合され、EC:ヨーロッパ共同体が成立します。さらにECは、冷戦が終わった後EU:ヨーロッパ連合に発展します。
東西の主要国であるアメリカとソ連の関係に大きく変化を与えた出来事が起こります。それが1962年のキューバ危機です。冷戦の中でキューバ内では1959年に革命が起こり、元々資本主義国家だったのが社会主義国家になります。新しいキューバはソ連と親しくなります。ソ連はキューバに核ミサイルを置きました。これまでアメリカとソ連は核兵器の開発や核実験の競争をしていました。しかし、アメリカ本土のすぐ近くに敵対する国のミサイルが置かれるのは初めてであったため、世界は核戦争の危機に直面しました。この出来事をきっかけに、冷戦の緊張を緩和するデタントと呼ばれる時期に入っていきます。
具体的に起きた出来事や変化を見ていきます。まずは兵器の部分で開発や実験を見直す条約が結ばれるようになりました。1963年、まず部分的核実験禁止条約が結ばれます。この条約では空気中での核実験や水中での核実験を禁止した条約です。地下での実験は認められています。その5年後の1968年に核拡散防止条約が結ばれます。
さらに1980年代になるとソ連はミハイル・ゴルバチョフによって政治経済の改革(ペレストロイカ)が進められました。さらにグラスノスチと呼ばれる情報公開も行われます。こうしたソ連での変革は他の社会主義国にも影響していきます。1989年、ドイツの東西を隔てていたベルリンの壁崩壊が起こります。1989年12月にはソ連のゴルバチョフとアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領がマルタというところで会談をします(マルタ会談)。この会談で冷戦の終結が宣言されます。その後1990年にドイツ再統一が実現し、1991年には戦略兵器削減条約が米ソ間で結ばれました。さらに同年12月、ソビエト連邦の崩壊によりソ連は解体され、ロシア連邦など複数の独立国家が誕生しました。

イランは、1979年にイラン革命で出来たイスラム教の国です。対して、イラクはサダム・フセインという大統領が独裁をしていました。そして、1980年から1988年の間にイランとイラクの間で戦争が起こりました。(イラン・イラク戦争)
戦争の理由は領土の問題などがありました。また、イランで起こった革命がイラクに広がることをサダム・フセインが恐れていたことも理由の一つです。フセインは革命の広がりを抑えるために戦争を行うことを考えました。この時にアメリカも、イラン革命によって成立した反アメリカ的な政権の影響が中東に広がることを恐れてイラクを支援します。イランでは革命以前から石油の国有化が進められていましたが、革命後は欧米諸国との関係が悪化し、石油の供給が不安定になることをアメリカは懸念していました。
フセインは戦争後、多額の借金を負ったイラクを立て直すため、石油を所有する隣国のクウェートに侵攻を行います。国連はこれを違法と判断し、イラクに侵攻の退去を指示しました。しかしフセインがそれに従わず侵攻をやめなかったため、アメリカを中心とした多国籍軍がイラクとクウェートに送られました。この戦争を湾岸戦争といいます。湾岸戦争の際、日本は自衛隊を直接派遣せず資金援助を行いましたが、その後1991年にペルシャ湾へ掃海艇を派遣しました。このような活動を今後も行うために、1992年に日本では国連平和維持活動協力法(PKO協力法)が成立します。
2001年9月11日、アメリカに同時多発テロ事件が起こります。この事件の首謀者はイスラム過激派組織であるアルカイダです。イラン革命はイラン国内でイスラム政治体制を成立させた革命ですが、アルカイダのようなイスラム過激派組織は、イスラム教の考え方に基づいて世界全体に影響を広げようとする点で性格が異なります。アメリカはイスラム過激派組織がアフガニスタンに隠れているとして攻撃しました。さらにアメリカは2003年、テロとの戦いを進める中で、イラクが大量破壊兵器を隠しているとしてイラクに進軍しました。これをイラク戦争といいます。
日本の戦後の歴史を一気に見ます。年代順に確認します。
1950:朝鮮戦争による特需(国連軍への物質などの提供)
1956:国際連合に加盟
1960年代:高度経済成長期、急速な成長と輸出の増加→全国で公害問題も発生
1964:東京オリンピック→東海道新幹線の開通
1965:日韓基本条約で、韓国との国交正常化
1972:日中共同声明で、中国との国交正常化
1972:沖縄の返還(小笠原諸島は1968年)
1973:石油危機(オイルショック)→高度経済成長が終わる
1978:日中平和友好条約
石油危機(オイルショック)後、日本は安定成長へ
1970-1980年代 欧米との貿易摩擦
1990年代 バブル経済の崩壊→長期にわたる不景気へ
\小・中・高校生の勉強にお悩みのある方へ/

最後までお読みいただきありがとうございました。
今回は戦後の日本について紹介しました。その他の歴史の定期テスト対策の記事はこちらからチェックしてみてください!
他にも様々なお役立ち情報をご紹介しているので、ぜひご参考にしてください。質問などございましたら、お気軽にお問い合わせください!






