【歴史】戦国時代の日本~豊臣秀吉編~

皆さんは戦国時代といったら誰が一番有名だと思いますか?

恐らく多くの人は「織田信長」と答えるのではないかと思います。

確かに織田信長は「天下布武」という大義を掲げて、日本を統一しようとして本当に活躍でした。

そして、多くの有名な戦いがあり、経済政策を残すなど、後世にも残る素晴らしい成果を挙げた人でした。

 

ところがですよ!

織田信長は「天下布武」ないし「天下統一」は成し遂げていないのです。

本能寺の変で家臣の裏切りにより自刃し、天下統一を成すことなくこの世を去ってしまいます。

 

では、誰が天下統一を成したのでしょうか?

それが、これから解説していく豊臣秀吉という人物です!

秀吉の誕生・信長の従者として

尾張国で生まれた秀吉は、大名の子でも、武士の子でもなく、百姓の子でした。

ちなみに名前は「日吉丸」。大名とは程遠い身分からのスタートでした。1536年か1537年のことです。

 

父親が幼い時期に亡くなると、寺に預けられ、今度は今川家の家臣に奉仕…といったように、中々苦労をしていたと考えられます。(身分が低い人だったので、記録が殆ど無いです。)

そんなこんなでたどり着いたのが、当時まだ小国の大名であり清須城主であった織田信長の元でした。

とはいえ、家臣などではなく、あくまで下の身分の人間としての奉仕です。

 

ただ、秀吉はここで織田信長に気に入られます。

後の伝記には、清須城を修理する際に、働き人達をうまく競争させて仕事を早く終えさせたり、信長の草履を温めたりなどということをしたという逸話が残っています。

これらの内容が正しいかどうかは分かりませんが、少なくとも1560年の桶狭間の戦いには参戦していたと考えられ、ここから足軽のトップになっていくなど、急速な出世を遂げていくこととなります。

城主・武将としての躍進、信長の死

1565年には有力な武将として名前が挙げられている記録が残っており、1573年に浅井・朝倉軍を倒すと、その功績が認められ、長浜城の城主となります。

そして、この頃から「羽柴」秀吉と名乗り始めます。

羽柴とは丹羽長秀と柴田勝家という信長の重臣の名字からとっており、この二人を敬っていたことがうかがえます。

 

その後も織田信長の家臣として長篠の戦いに参戦したり、また信長に命ぜられて中国地方の平定に向けて出陣し、次々と城を攻め落とすなど、織田信長の家臣の中でも特に成果を上げていきました。

 

そんな順風満帆な中国征伐でしたが、本能寺の変が起こります。

主を失った秀吉はすぐに京都へ引き返し、謀反を起こした石田三成の軍を征伐し、京都を支配圏に収めます。

その後、秀吉を含む織田信長の家臣たちは清須城に集合し、信長の後継者を決めるということを行ないました(清須会議と呼ばれています)。

その会議の中でも、秀吉の推した織田秀信を後継者として置きました。これが1582年の事でした。

 

このとき、対立をしたのが、柴田勝家という人でした。羽柴秀吉の名前の由来となった人です。

そして、この対立は和睦することが出来ず、賤ヶ岳の戦いによって秀吉が柴田軍を倒すことで終わりました。

秀吉がかつてあやかる対象であった人を打ち倒すことになるとは、運命は中々に酷なものです。

 

この一連の流れより、織田信長の後継者となることが確実なものとなりました。

秀吉の天下統一

秀吉は大坂城を建て、そこを居城として天下統一の手はずを進めていくこととなります。

まず、織田信雄と徳川家康と対立するも、これを有利に退け講和を結び、徳川家康を自らの手中に収めるなど、自分の対抗となりうる勢力を収めていきました。

その後、中国地方、九州、関東、東北を6年ほどで支配下に置くことで、名実共に天下統一を成し遂げることとなります。

これが1590年のことです。

秀吉の治世

こうして、秀吉は織田信長が志していた天下統一を遂に達成しました。

関白太政大臣という役職を朝廷から任命してもらい、豊臣秀吉の名を名乗るようになります。

秀吉というと豊臣というイメ―ジが強いと思いますが、豊臣と名乗るのはかなり後期の事なんですね。

 

彼が行った政策にはいくつか有名なものがあるので紹介しましょう!

太閤検地

秀吉は全国の田畑の面積を調べました。

なんせ天下統一をやっと成し遂げたので、これを調べ上げるのは税を取り立てるのに重要でした。

 

ところで、その面積など寸法基準は国によってばらばらでした。

これを統一して行ったのがこの太閤検地の特徴です。

ちなみに、それに用いられたのは京枡という京都で用いられていた升でした。

 

そして、もうひとつ、とても重要なことが、農民が田畑を持つ権利を認められたことです。

というのも、今までは誰かの荘園であったり、土地をいっぱい持っている人のところで働く、というものが当たり前でした。

それが検地帳というものによって人と土地を紐づけることが出来るので、それが可能になったのです。

こうして、奈良時代ごろから連綿と続いてきた荘園が否定され、公家や寺社はその勢力を削がれることとなりました。

刀狩令

もう1つ大きな改革は「刀狩令」です。刀を狩るとは要するに、刀を取り上げるということです。

戦国時代の各国は武士だけでなく百姓も戦場に駆り出されて戦っていたので、百姓も武具を持っていました。

ところが、全国を統一して争いが減ると、その出番は減ります。

それどころか、百姓が一揆(百姓の為政者に対する反乱)を起こしたりなどされたら、政治を行うものからしたらとても厄介です(いくら農民とはいえ、数がいればかなりの勢力となり得ますからね)。

 

そして、この刀狩を行なうことで、武士と百姓が刀の有無で見分けがつくようになりました。

これを兵農分離といいます。

さらに、人掃令という身分を変えてはいけないという令を出したことで、百姓と武士の身分に大きな溝が生まれることとなります。

キリスト教の禁止

また、秀吉はキリスト教を禁止しました。

信長の時代はキリスト教を優遇してセミナリオなるものまで建てるほどであったのに、どうして禁止にしてしまったの?と思うかもしれませんが、その理由はキリスト教の躍進的な広まり方にありました。

特に、長崎などはキリスト教の勢力下に置かれていると言っても過言ではないほどに侵食されており、これは後々の天下統一の際に邪魔になると思ったようです(キリスト禁止を行なったのは天下統一前でした)。

 

まあ分かるとは思いますが、キリスト教禁止とは言え、キリスト教信者が居なくなることはなく、後の時代にも影響してきます。

 

止まらない野望と最期

秀吉は天下統一を果たしましたが、秀吉の野望はこれにとどまりませんでした。

天下統一を果たした僅か2年後には朝鮮に向けて出兵を開始したのです。

この理由については分かっていませんが、野望であったり、国内の安定(大名を弱体化させる)であったり、キリスト教を恐れての自衛のためであったりとさまざまな説があります。

この朝鮮出兵ですが、2回行われ、どちらも失敗しています。

 

この朝鮮出兵のさなか、秀吉は日本にいましたが、病気で亡くなりました。これが1598年のことです。

このたった2年後、天下分け目の戦いが行なわれるのです。

 

 

 

これが豊臣秀吉の人生の概要です。

天下統一との流れとともに、代表的な政策を覚えておきましょう!

最後までお読みいただきありがとうございました。

他にも様々なお役立ち情報をご紹介しているので、ぜひご参考にしてください。

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